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​縁起

無限に広がる青い空、手を入れたら染まってしまいそうな青い海。大自然がそのまま残る大井村の海を見おろす丘に来福寺は建立されました。

時は正暦(しょうりゃく)元年(九九〇)智辨阿闍梨の開山です。紫式部が源氏物語を完成させる二十年程前の年です。平成三十一年(令和元年)で一千二十九年の法燈を伝承しています。

又、六十余年後には「前九年の役」「後三年の役」と戦乱が続き御本尊も行方不明となったという伝説があります。そして、戦国時代の文亀元年(一五〇一)源頼朝が納経したという経塚の前を行脚していた梅巌和上が経塚中より読経を聞き、急ぎほり起すと一躰の地蔵菩薩像が出現、以後「経読み地蔵」と呼ばれ今日に至っています

又、鎌倉時代には梶原一族が檀信徒として栄之、景政、景時、景季等が寄進した「梶原松」「延命桜」があったと伝えられています。特に地蔵菩薩信仰には桜の木を奉納す風習もあり、江戸時代には桜の名所として最盛期を迎えました。境内に「世の中は 三日見ぬ間に 桜かな」の句碑があります。雪中庵三世大島蓼太の作です。

蓼太は松尾芭蕉の直系で旅俳人として奥の細道等生涯に三十四回程行脚し二百余の俳句集を世に残しています。天明七年(一七八七)九月七十才で逝去されました。

同句碑は、弟子一門により同年十一月に建立されました。

句碑の裏面に雪中庵四世完来建立の文字があります。

又、第二次世界大戦の戦火をまぬがれた山門(薬医門)と聖天堂が古(いにしえ)の面影を残しています。

来福寺の山号ですが、古来は海上山、海照山と号し、境内に天満宮の社があったので天神山とも呼ばれていました。文献の中には、元の海上山、海照山にもどした方が本来ではないかという説もあります。

又、寺院はその時代時代にあわせて色々な寺院と縁を結びかつ縁が消えます。当寺も往古は長遠寺の法系でしたが、その後京都仁和寺の法系になり、代々親王が住職を継承していました。明治三十八年に川崎大師平間寺の法系となり今日に至っています。さらには、三百年後、千年後にはどのような法系に属しているのでしょうか。・・・・・

幾星霜、時空は変っても境内の桜だけは永遠に咲かせてほしいものです。

さて、往時、智辨阿闍梨や檀信徒はどのような想いを胸に、寺を開創したのでしょうか?又、当時の人々はどのような人生を送ったのでしょうか?一千年余の時空をくぐって昔を偲ぶのも古寺巡拝の楽しみではないかと思います。

松
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春
境内図
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